2月1日には出産を终えて宫中へ戻った妃の厳子に対して义満との密通を疑ってこれを殴打、母亲の広桥仲子の説得や义満による医师の派遣も効果がなく、11日には爱妾の按察局が义満との密通を疑われて出家させられた。困惑した义満は二条良基と协议して、15日に上皇の信頼が厚い里松资康?広桥仲光を派遣して上皇の相谈に当たらせようとしたが、これを闻いた上皇は义満が自分を配流しようとしていると思い込み、持仏堂に笼って切腹自杀を図るなどの騒动を起こしている。
18日に义満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、治天の君の権威は失坠して再び苏ることはなかった。一条経嗣は「圣运之至极」と书き记している(『荒暦』永徳3年1月9日条)。
终わりに
义満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去し、自己の権力を确固たるものにした义満は応永元年(1394年)には将军职を嫡男の足利义持に譲って、従一位太政大臣に昇进、政治上の実権は握り続け、事実上で公武统一的な政権を成立した。
翌年には出家して道义と号した。义満の出家は、征夷大将军として武家の太政大臣?准三后として公家の顶点に达した义満が、寺社势力を支配する地位も得るためであろう。
応永2年には九州探题として独自の権力を持っていた今川贞世を罢免する。応永6年には西国の有力大名?大内义弘を挑発し义弘が堺で挙兵したのを机に讨伐し、西日本で义満に対抗できる势力は排除された。
応永13年(1406年)後小松天皇の母通阳门院厳子死去、义満は天皇一代に二度の谅闇は不吉であるとして、その室日野康子を後小松天皇の准母に立てて谅闇を回避させた。また祭祀権?叙任権などの诸権力を天皇家から接収し、义満の参内や寺社への参诣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年3月に北山第へ後小松が行幸したが、义満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宫中において次男?义嗣の元服を亲王に准じた形式で行った。それらも皇家の権威ほとんど存在しないことであろう。
同年、义満死去、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を赠られるが、4代将军となった子の义持は辞退している。室町中期、赤松満佑が六代将军义教を杀害、幕府自身も混乱な状态であるし、その时期以降応仁の乱を経て明応の政変まで皇家の権威も徐々に回复だと考えられる。
つまり、天皇権威を崩壊过程は、まず、自主的な财政権力を失う、一旦その権力を失うなら、院政の财政的基盘も存在しない。そして、後嵯峨上皇が自らの後継者を指定しないだから、王家の分裂も当然であった。
自主的な财政権力も失うし、王家の分裂もあるし、その状态で天皇家は南北朝时代へ歩いて、南北朝时代の大乱の中で、権威もちろん迅速に崩壊であろう。
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